大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年9月24日 礼拝説教 『いちばん小さい者こそ大きい』

 ルカによる福音書9章46節から48節をお読みいたします。

 弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。

(口語訳聖書)

 それでは、「いちばん小さい者こそ大きい」と題してお話いたします。

 今回の聖書箇所は短めですが、その短い物語の中で、いろいろなことが起こっています。

 まずは、弟子たちの間で、自分達のうちで誰が一番偉いだろうかという思いが起こります。そして、イエスさまが彼らの心の思いを見られます。

 翻訳の方では、弟子たちの間で議論が起こり、イエスさまが弟子たちの心の思いを見抜いたという風になっていますが、「議論」も「思い」も原語では同じディアロギスモスとなっています。イエスさまは弟子たちの心の中のディアロギスモス、つまり思いを見られ、行動を起こされました。なので、弟子たちは口に出して誰が一番偉いのか論じ合っていたのではなく、みんなが心の中で「誰が一番偉いのだろうか」と考えていたという可能性も高いのではないかと思います。

 神の国を宣べ伝える立場にあった弟子たちが、「誰が一番偉いのだろうか」という思いに取りつかれていたわけです。

 人間というのは、何かと上下を決めたがります。中学や高校ではスクールカーストが出来上がっています。大学生になると職業を勝手にランク付けして、自分がやりたくない仕事を底辺職呼ばわりする人も出てきます。社会に出れば、社会的な地位や性別、居住地や収入、学歴や知識でのマウント合戦が始まります。いつの間にか属性によるヒエラルキーが出来上がり、その支配が私達を苦しめています。

 露骨なマウントの取り合いはそこまで見かけないかもしれません。しかし、高圧的な態度を取る人の要求がなぜか通ってしまうということはないでしょうか。身体が大きく力を持っていそうな人にはみんな遠慮するけど、小柄で優しそうな人には威張り散らす人がいるということはないでしょうか。人間は、相手の年齢や性別、体格や動作を見て、無意識に「自分と相手、どちらが強いか」と判断しています。「自分は差別なんてしていない」と言う人でも、街を歩いたり電車に乗ったりすると、「この人は怖そう」とか「この人は優しそう」みたいな感覚を、抱くのではないでしょうか。私達は、私達が自覚している以上に、「誰が偉いか」というディアロギスモス、つまり思いに支配されているのかもしれません。

 思い返せば、聖書のはじめから人間は競争に支配されているのではないでしょうか。聖書の神話では、アダムとエバは、神のように善悪を知る者になろうとして、食べることを禁じられた善悪の知識の木の実を食べてしまいました。その息子のカインは、弟のアベルの方が神から評価されたことに腹を立て、アベルを殺してしまいました。そしてカインの子孫は王様になり、一夫多妻制を始め、自分を傷つける者を殺すと宣言します。

 誰が偉いか。この思いが、人間を狂わせ、この世界を生き辛い場所にしているのではないでしょうか。

 人より偉くなろうとする心の在り方が、この世界を壊して住みにくい場所にしているのではないでしょうか。

 イエスさまは、弟子たちの間でそういった思いが湧き上がっていることに気づかれ、弟子たちを破滅から護ろうとされたのかもしれません。

 イエスさまは、子どもを傍に立たせて言われます。

「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」

 イエスさまは、弟子たちの価値観をひっくり返されます。

 子どもをイエスさまの名のゆえに受け入れる者は、イエスさまを受け入れるのである。そして、イエスさまを受け入れる者は、イエスさまを遣わされた天地創造の神、ヤハウェを受け入れるのである。

 つまり、子どもをイエスさまの名のゆえに受け入れる者は、この世界の祖神(おやがみ)であるヤハウェを受け入れるのと同じだと言われるのです。

 そしてイエスさまは言われます。
「いちばん小さい者こそ、大きいのである」

 イエスさまは、「誰が一番偉いのだろう」という弟子たちの思いを、ひっくり返されます。

 弟子たちは「誰が偉いか」と思いめぐらせます。弟子たちの考える「偉い」というのは、きっと現代の世間一般の価値観と近かったのだと思います。知識、業績、能力など……。

 世間でも宗教団体でも、小さな人々、立場の弱い人々が軽んじられるという現実があります。しかし、立場の弱い人々を軽んじる共同体では、強い人しか生き残れません。強い人もいずれは更に強い人に支配され、最も強い者、つまり一番偉い者だけが勝者となります。そんな社会は、神さまの理想からは大きくかけ離れていました。

 それゆえ、神さまは言われます。

「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」
 一見不合理に見えるこの言葉が、私達を神さまの理想に引き戻します。
 世間一般の常識では、弟子の中で最も優秀な者が、弟子たちの中で最も大きな者となります。しかし神さまは、弟子でなく子どもを傍に立たせ、最も小さなものが大きいのだと言われました。

 神さまが理想とする世界は、最も小さな者が重んじられる世界です。イエスさまを救世主として掲げる宗教団体の中でさえ、この理想は実現されていません。

 しかし、その理想に向かって進もうとするとき、競い争う競争でなく、力を合わせて奏でる協奏が生まれます。争うのではなく、支え合う世界が生まれます。

 神さまは人間の現実に対して、揺さぶりをかけられます。

 そして神さまは言われます。

「いちばん小さい者こそ、大きいのである」