大和寝倒れ随想録

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2023年9月17日 礼拝説教 『がけから湖へ』

 それでは、ルカによる福音書8章26節から36節をお読みいたします。

 

 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである。イエスは彼に「なんという名前か」とお尋ねになると、「レギオンと言います」と答えた。彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである。悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。ところが、そこの山べにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった。飼う者たちは、この出来事を見て逃げ出して、町や村里にふれまわった。人々はこの出来事を見に出てきた。そして、イエスのところにきて、悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て、恐れた。それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた。

 

 それでは、『がけから湖へ』と題してお話させていただきます。

 このお話では、悪霊に取りつかれた人が登場します。その人は墓場にばかりいたそうですが、古代ユダヤの文化では、墓場は悪い霊が集まりやすい場所とされていたようです。日本でも、墓場は幽霊や妖怪が棲みつく場所というイメージが強いかもしれません。

 悪霊に取りつかれた人は、イエスさまを見るとひれ伏して叫びました。

「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」

 悪霊は、自分を追い出そうとするイエスさまに命乞いをします。

 イエスさまは問いかけます。

「なんという名前か」

 悪霊は答えます。

「レギオンと言います」

 イエス、レギオン。2つの名前が出て来るわけですが、古代ユダヤでは、名前を知られると支配されるという考えがあったようです。先にレギオンがイエスさまの名前を呼びますが、イエスさまに全力で命乞いをしています。一方、イエスさまがレギオンに名前を尋ねると、あっさり答えてしまいます。名前を知られていようが、イエス様には関係ありませんでした。

 レギオンという名前はたくさんの悪霊がその人に取りついていたことを示しています。このレギオンという言葉は元々、ローマ帝国の陸軍の編成単位で、その数は5000人~6000人と言われています。それ程の数の悪霊が1人の人に取りついていたかは分かりませんが、まるで軍団のようにたくさんの悪霊が取りついていたということでしょう。そんなレギオンですがイエスさまに対しては無力です。底知れぬ所に落ちるようには命じないようにと、イエスさまに懇願しています。悪霊の軍団すらも、イエスさまには敵わないのです。

 底知れぬ所という言葉ですが、聖書では死者の世界を表しています。日本神話における黄泉に似た場所と捉えておいても良いでしょう。古代ユダヤの人々は、地下あるいは海の底に死者の世界があると考えています。レギオンはイエスさまに、豚へ入ることを許してほしいと懇願します。なぜか、イエスさまはそれを許可してしまいます。

 その結果は悲惨なものでした。レギオンは豚に入ります。豚はユダヤ人にとって不浄な生き物であり、悪霊に取りつかれやすいと考えられていたそうです。豚の群れはがけから湖へ駆け下り、溺れてしまいました。がけから湖へ。古代ユダヤの世界観では死者の世界が海の底、つまり水の下にあると考えられていました。ということは、豚に入ることを許可されたレギオンが、結局は自滅して死者の世界に落ちてしまったということを示しているのかもしれません。

 レギオンに取りつかれていた人は正気にもどり、人々はその出来事を知って恐れます。

 

 この箇所は悪霊追い出しの物語です。悪霊は実在するのかもしれませんし、もしかしたら、人間の心の闇をキャラクター化して表現したものなのかもしれません。どちらにしても確実に言えることは、私達の心を苛むものが存在しており、それが私達を破壊する力を持っているということです。そしてそれは、レギオンが豚に乗り移って湖に飛び込んだように、私達を道連れにしようとします。

 古代の修道士たちは、自分や他人に害を為す思考や感情を、悪霊の攻撃と考えました。欲望や怒り、いろんな感情が私達を苛みます。そこから「あいつシバいたろ」と誰かを攻撃したり、あるいは人を自分の思い通りにコントロールしようしたりする思考が、私達を汚染します。

 暴力的な感情や思考に支配された時、私たちは服を着ずに墓場にばかりいた人のように、あるいはレギオンに取りつかれた豚の群れのように、暴れたり自滅したりします。
人間は日々の生活の中で、自分自身の暴力性に屈します。
誰かの痛みに無関心であったり、誰かを攻撃することで自分自身の正しさを示そうとしたり、自分より弱そうな人を差別したり支配したりすることで自分の正しさを示そうとしたり、そういった暴力の文化が、この世界を生き辛い場所に変えてしまいます。
政治も経済も宗教も教育も、そういった力に支配され、暴力の力が私達を破壊します。
しかしイエスさまは、私達を破壊する暴力的な力から、私達を救い出してくださいます。

 イエスさまは、私達自身を内側から破壊しようとする暴力の力から、私達を解放してくださいます。

 今はこの世界を支配しているように思える暴力の力もまた、いつかは、がけから湖へ落ちていき、イエスさまに打ち負かされます。

 日常生活の中では、聖書に記されているような奇跡を体験することは、そうそうないかもしれません。しかし、イエスさまの手を取るならば、たとえ少しずつでも、癒しの物語の中で生きることができるのです。そして終わりの時には、いずれ全人類を苛む破壊的な力は消えていきます。がけから湖へと。