大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

『古代オタクが聖書に挑むお話』2

 「旧約聖書」と「ユダヤ教の聖書」は中身が大体一緒ですが、収録されている文書の順番が入れ替えられるといった違いはあります。

 古代イスラエルの人々は「ドームに囲まれた世界」という宇宙観を持っていました。

 一番上から、神の領域である「天」、「上の水」、上の水を支える「空」、人々の領域である「地」、そして混沌の象徴である「海」と死者の領域である「黄泉」があります。

 現代人はロケットを飛ばしまくったり、人工衛星のおかげで便利な生活を送ったり、たまに地球の軌道上を流れる国際宇宙ステーションを目視できたりという感じです。古代イスラエルの宇宙観とは全く異なりますね。

 旧約聖書の神話と中近東の他の民族の神話を比較すると、意外な共通点が見つかります。展開や言い回しが似ている箇所なんかもあったりします。

 旧約聖書を書いた人がそれらを神話をパクったかは分かりませんが、少なくとも「共通の文化的な土台はあった」と言えると思います。

 現代人が「天地創造」と聞くと、「無(真空状態)」から物質を創造することを思い浮かべることが多いと思いますし、「光あれ」と聞いてビッグバンを連想することもあると思います。

 しかし、古代中近東の人は、創造神話を書く上で「混沌を分けて秩序と機能を与えること」を重視したようです。

 混沌が分けられ、秩序と機能が与えられることによって、破壊的な「原始の混沌」が「生命をもたらす世界」へと造り替えられてました。

 世界は「とても良い」所として造られ、人間も地上の調和を守る存在として造られたのだと、古代イスラエルの人々は信じていたそうです。

 現代のキリスト教では見落とされがちな箇所かもしれません。

 聖書は古代中近東の文化の中で書かれたものなので、当然現代人とは文化も世界観も異なります。「聖書の内容は本当にあったことなのか?」という議論がたまに起こりますが、そもそも聖書は「現代人が想定する客観的事実」として読まれるべきものとして書かれたのでしょうか? 立ち止まって考えてみる必要があるかもしれません。

 人間の考えることは、時代や文化を越えて似通ってくることがあります。ユング派の人に言わせてみれば「人類は集合的無意識で繋がっているのだから、別に驚くことでもない」という話なのかもしれません。

 たまに聖書の解釈について「私達の教団は聖書を字義通り解釈しています」と主張する人もいます。しかし、聖書が「字義通り解釈されるべきもの」として編纂されたかどうかについては、考えてみる必要があるでしょう。

 古代イスラエルの人々は「世界はドームに囲まれている」という世界観に基づいて、「神が空を造り、水を上と下に分けた」と書き記しました。なので、古代イスラエルの人々にとっては、空の上には水があるわけです。この世界観は、当然現代人の宇宙観と異なります。聖書をそのまま事実と考える人は、「ノアの大洪水より前の時代には一時的に水が空にあった」と考えることで、現代の宇宙観との矛盾を乗り越えようとします。確かに、そのような解釈も可能かもしれません。しかし、その解釈方法が、聖書を書いた古代人の意図と一致するかについては、考えた方が良いかもしれません。

 古代人は聖書を通して何を伝えたかったのでしょうか。「歴史的事実」でしょうか。それとも……?

 もちろん、一般の信者さんが古代の文化を学んで聖書を解釈するのは、あまりに負担が重すぎます。その分、聖書解釈を教える宗教家たちや宗教団体は責任重大です。

 古代は、聖書は人々に読み聞かせて解釈を伝えるものだったようです。教える側の責任が重いことは、今も昔も変わりません。

 人間は失敗する生き物です。

 人間が宗教団体を形成している以上は、宗教団体も必ず何か失敗するはずです。

「私たちは神の組織だから間違うことはない」などと言っている団体ほど、交通ルールをガン無視する暴走車の如き振る舞いをしがちです。

 こうして並べてみると、いろいろな民族に共通して「神の領域」「人の領域」「死者の領域」という概念があるようです。なかなか興味深いですね。