大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)2

教会を安全な場所とするために(2023年度試作版)2

※個人的な立場を表明したものであり、私が宗教活動をしていく上での指針です。内容を修正しながら、教会の指針として運用できるようにしていきたいと思っています。作成したものを、少しずつ公開していきます。

前回 ↓

nara-nedaore.hatenablog.com

教会における暴力

LGBTへの暴力について
 長年多くのキリスト教団体では、同性愛は罪であるとされてきた。その結果、LGBTの人々への暴力や人権侵害が深刻な問題となっている。特にアメリカにおいては転向治療と称し、身体的・心理的苦痛で洗脳するといった手法により、同性愛者を異性愛者へ「転向」させようとする虐待行為が見られる。

 転向治療のような拷問を伴う迫害のみならず、宗教団体の教職者や親から同性愛が罪であると教えられ、罪悪感や孤立感に苛まれる人々も多い。

 また、神は人類を男と女のみに造られたとする信念から、多くのキリスト教徒がトランスジェンダーの人々を迫害の対象としている現状がある。

 これらの迫害の結果、多くの人々が自死に追い込まれている。それだけでなく、LGBTを敵視する文化がヘイトクライムやテロ行為を助長している。

 LGBTの迫害の背景にあるのは、同性愛を罪とする聖書解釈である。

 この解釈の根拠として、創世記とレビ記パウロ書簡が頻繁に引き合いに出される。

 まず、創世記においては「そして神は人をご自身の形(像)に造られた。神の形(像)に彼を造られた。男と女に彼らを造られた」との記述が見られる。キリスト教団体の中には、この記述を根拠に、「男と女しかいないので、神はLGBTを認めない」と主張する者もいる。しかし、この箇所の主旨は、神が人間を神の像として創造されたことにある。さらに、ここでは男と女に創造したという記述しかなく、そもそも同性愛やトランスジェンダーについては何ら述べられていない。また、男女観について、ここでは男も女も、すべての人間が神の像として造られたという点に重点が置かれている。よって、この聖句は、LGBTについて言及しておらず、LGBTの存在を否定する理由にはならないと思われる。

 次に、レビ記においては18章22節と20章13節が根拠として利用される。レビ記18章22節には「そして男と、女と寝るようにあなたは寝てはならない。それは忌むべきことである」との記述が見られる。そしてレビ記20章13節では「そして女と寝るように男と寝る男は、双方とも忌むべきことをしたので必ず殺される。彼らの血が彼らの上にある」とある。しかし、この箇所が現代における同性愛の概念と関連しているかについては、慎重に検討しなければならない。レビ記18章の冒頭では「カナンの地の行いに従って行ってはならない」と述べられている。そして、レビ記20章の冒頭においては異教の人身御供への非難が述べられている。どちらの箇所においても、当時のイスラエル人が敵対する勢力の風習を廃止し、敵対する勢力との人々との違いを明らかにすることに、重点が置かれている。さらに、レビ記における男性同士の性行為は、異教における儀式や魔術を想定しているとも言われている。以上のことから、これらの箇所は、同性同士が人生のパートナーとして愛し合う現代の同性愛の概念を想定しているとは考えにくい。

 パウロ書簡においては、ローマの信徒への手紙1章24―27節とコリントの信徒への手紙I 6章9―10節が根拠とされている。ローマの信徒への手紙1章24―27節には、「それゆえ神は、彼ら自身の心の欲において、彼らを不浄に引き渡し、彼らは互いに自分達の身体を辱めています。彼らは神の真理を偽りに変え、創造者ではなく被造物を崇め、そして仕えています。創造者こそ永遠に讃えられる方です。アーメン。それゆえ、神は彼ら不名誉な情欲に引き渡されました。彼らの中の女性は自然な関係を自然に反するものに変え、同様に男性もまた、女性との自然な関係を捨て、互いに対する情欲で燃え、男同士で見苦しいことを行い、彼らの過ちに相応しい報いを自身に受けています」と記されている。この箇所も、レビ記の箇所と同様に、「異教における習慣」であることを前提に論が展開されている。そして、ローマ帝国においても、儀式としての同性間での性行為が存在していたとも指摘されている。異教の習慣としての同性間の性行為では、行為者が同性愛者であることは想定されていないと思われる。さらに、当時の地中海世界においては、同性間の性交渉を自然に反するものと考える人も多く、パウロもその考えに共感してこの箇所を書いていたと思われる。よって、ここでの「自然に反する関係」とは、本来異性愛者であった者が、本来の性的指向から逸脱しているという想定で書かれている可能性が高いと思われる。よって、この箇所を持って聖書が現代の意味における同性愛そのものを禁じていると断じるのは困難であると考えられる。コリントの信徒への手紙I 6章9―10節には「正しくない者は神の国を受け継ぐことがないということをあなたがたは知らないのですか。道を外れてはいけません。淫らな者たち、偶像崇拝をする者たち、姦通する者たち、男娼たち、男色をする者たち、盗む者たち、貪欲な者たち、飲んだくれたち、罵倒する者たち、奪う者たちは、神の国を受け継がないでしょう」との記述が見られる。「男娼たち」と「男色をする者たち」について言及されていることが、神が同性愛を禁じていることの根拠とされてきた。しかし、男娼は職業的なものであり、一方男色をするものは、男娼を買うものや、身分の低い男性に性的な関係を求める男性が想定されているのではないかと指摘されている。さらに、当時の男色は、身分の高い男性が、身分の低い男性や年下の男性を性的に支配する関係性を想定していたとの指摘もある。よって、この部分を異性愛に置き換えると「娼婦と買春をする男性」のような意味合いとなる。一方、現代の同性愛という概念においては、異性愛と同じように相手を配偶者として共に生きてく関係性も想定されている。ゆえに、この箇所から神が同性愛そのものを禁じていると断じるのは不適切であると考えられる。

 以上のことから、同性愛についての言及と見られた聖書箇所は、当時の社会状況との関連が強く、これを現代の同性愛に強引に当てはめて解釈するのは問題であると考えられる。当時のキリスト者が同性愛を自然に反するものと捉えていた可能性は高いが、当時の社会状況に起因するものである可能性が高く、そこから直ちに神が同性愛そのものを禁じていると断定するのは不適切であろう。

 一方、無責任な性行為は望ましいものではなく、さらに、支配関係に基づく暴力的な性行為が憎まれるべきものであることは明白である。ただし、それについては、異性間か同性間かどうかは関係がない。