大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

2023年10月1日 礼拝説教『隣人とは誰のこと』

 ルカによる福音書10章25節から37節をお読みいたします。

 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

(口語訳聖書)

 それでは、『隣人とは誰のこと』と題してお話させていただきます。

 今日の箇所は、律法学者がイエスさまを試そうと質問を投げかける場面から始まります。

 律法学者というのは、聖書を研究する専門家です。律法学者は尋ねます。

「どうすれば永遠の命を受けられるでしょうか」

 律法学者というのは、簡単になれるものではなく、たくさんの訓練を積んでやっと名乗れるような肩書だそうです。なので、もちろんどうすれば良いのかとイエスさまに聞きたいわけではありません。専門家がイエスさまを試そうとして訪ねているのです。この問いに対して、イエスさまは問いで返されます。

「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」

 律法学者は専門家ですから、即答します。

「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」

 その答えを受けて、イエスさまは返されます。

「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」
 そのとおり行う。これが意外と難しいものです。

 単に知っているのと、それを実際に行うのでは、大きな違いがあります。

 キリスト教徒の中には積極的に聖書を読む人もいるわけですが、単に聖書に書いてあることを知識として知ることよりも、聖書が教えていることを実際に行う方がずっと難しいと思います。

 もしかしたら、この律法学者もそれに気づいていたのかもしれません。

 律法学者は自分自身を弁護しようとして尋ねます。

「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」

 当時のユダヤ人の多くは、隣人をユダヤ人のみと捉えていたそうです。この律法学者もその一人かもしれません。

 自分自身を弁護したい気持ちの裏には、何があったのでしょうか。

 この律法学者は、隣人を愛することの難しさに気づいており、聖書の教えを実行できていない自分に気づいて、なんとか自分を正当化する手がかりを見つけようとして、

「わたしの隣り人とはだれのことですか」と聞いたのかもしれません。それとも、ユダヤ人のみが隣人であると考えていて、その立場を正当化するためにこの質問をしたのかもしれません。背景にある気持ちがどうだったかは分かりませんが、自分自身を正当化しようとして質問を投げかけています。そこで、イエスさまは後に「善きサマリア人の喩え」と呼ばれることになるこのお話をされました。

 この物語では、ある人がイェルサレムからイェリコへ下って行きますが、強盗に出くわして半殺しにされてしまいます。その人を見つけた祭司とレビ人は向こう側を通って行ってしまいました。祭司もレビ人も神殿で奉仕する役割の人でした。ユダヤ教では遺体に触れると穢れてしまうと考えられていたため、死んでいるかもしれない、いつ死ぬかもしれない人を避けて通るという行動につながってしまったようです。宗教的な戒律が人道よりも優先されてしまう、本末転倒な光景がそこにはありました。現代の宗教においても、同じようなことが繰り返されています。

 しかし、次に通りかかるサマリア人は違いました。サマリア人というのは、当時ユダヤ人から差別されていた人々であり、愛国的なユダヤ人とって隣人ではない人でした。

 サマリア人は、死にかけていた人に手当をし、宿代も支払います。さらには、宿屋の主人に面倒を見てやってほしいと頼み、必要な経費は自分が払うと言いました。

 強盗に襲われて死にかけていた人を助けたのは、ユダヤ人が見下し差別し隣人でないと見なしていたサマリア人なのでした。

 イエスさまの話を聞いていた人々は衝撃を覚えたかもしれません。ユダヤ教の教師であるイエスさまが、この物語の中で、同胞であるユダヤ人を悪役として描き、当時多くのユダヤ人が敵対意識を抱いていたサマリア人を正義の味方として登場させたのです。現代の宗教家にそのようなことができるでしょうか。多くの宗教家は、内へ内へと意識が向き、「同胞」つまり同じ宗教を信じる人々を持ち上げるような言動を取るかもしれませんし、中には自分達の団体の外にいる人を見下すことすらあるかもしれません。しかし、神さまはそういった差別を許されない方でした。

 では、私達の隣人とはいったい誰なのでしょうか。

 隣人かどうかというのは、属性によって決まるのでしょうか。私の場合は大和民族の人間として生まれましたが、だからといって他の民族の人々は隣人ではなくなるのでしょうか。もしくは、私がキリスト教徒だからといって、他の宗教を信じる人や特定の宗教を信じていない人は隣人ではなくなるのでしょうか。そうではないと思います。
私たちは、誰が隣人なのか、自分勝手に線引きをしてしまっているのかもしれません。私達が誰の隣人になるか、神さまからその選択を突き付けられているのかもしれません。

 私達の隣人とは誰のことでしょうか。