大和寝倒れ随想録

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2023年8月20日礼拝説教「何をすれば」

 さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。(口語訳聖書)

 それでは、「何をすれば」と題してお話させていただきます。

 今回の聖書箇所は、洗礼者ヨハネと彼のもとにやってきた群衆との間で交わされた会話です。

 洗礼者ヨハネは洗礼をする人なわけですが、洗礼というのは、水を使った儀式で、古代では主に川に全身を浸すという形で執り行われていたようです。ヨハネは悔い改めの儀式として洗礼を行っており、多くの人々が、罪の赦しを得ようとしてヨハネの元に集まっていたようです。

 そこでヨハネは、群衆に厳しく問いかけます。

「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか」

 洗礼を受けようと集まった人々をまむしの子と呼んでいるわけですが、旧約聖書の創世記、エデンの園の物語では、蛇の子孫という表現が出てくるので、これを引用して人々に問いかけているのかもしれません。

 エデンの園で蛇は人間の善悪を惑わす存在として描かれています。また、ユダヤ文化において子という表現は、血のつながった子孫だけでなく、そこに所属する人といった意味合いも持つようです。なので、まむしの子というのも、蛇、または罪によって善悪を惑わされた人々を指しているのかもしれません。

 ヨハネは群衆に問いかけます。

「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか」

 さらに、ヨハネは群衆に警告します。

「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」

 かなり怖いことを言っています。

「斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」

 ヨハネは悔い改めの洗礼を授けますが、神の裁きについても語っています。

 神の裁きと申しますと、今まで多くの聖職者が、人々を恐怖で支配するために、神の裁きという概念を利用してきましたが、神の裁きとは何か、もう一度考え直す必要があるように思います。

 神の裁きというと永遠の地獄を想像する人が多いかもしれませんし、聖書の中ではそのように思える言い回しも使われています。しかし、聖書全体の物語のパターンから考えると、神が裁判をして罰を与えるというよりは、自分の行いがブーメランのように跳ね返ってきたり、神が人々を更生させるために行いにふさわしい結果を与えたりするようなニュアンスが強いように思います。なので、この箇所でも重要なメッセージは、神が人々に罰を与えるということではなく、どのように生き方を改めるかという点のように思われます。

 群衆はヨハネに問います。

「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」

 そこでヨハネは答えます。

「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」

 取税人も、何をすれば良いのかヨハネに尋ねます。

 取税人というのは、税金を集める人ですが、当時は決められた税金以上の金額を人々から徴収し、私服を肥やす取税人が多かったようです。

 ヨハネは答えます。

「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」

 兵士たちも、何をすれば良いのかヨハネに尋ねます。

「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」

 ヨハネは神の裁きがあると人々に警告しましたが、「この教義を信じなさい」とか「この儀式をしなさい」とか、そういった宗教っぽいことは話していません。

 ここでヨハネが話しているのは、現実での生活における、他者との関係です。

 持たざる者に与えること。人から奪うのを止めること。

 神から遣わされたヨハネが人々に教えたのは、そのように現実での他者との関係を見つめ直すことでした。

 持たざる者に与えること。人から奪うのを止めること。

 一見当たり前のように思われますが、この当たり前が行われていないのが、この現実の世界です。

 強い者は弱い者を踏みつけ、持つ者が持たざる者からさらに奪う世界。

 このような世界に私たちは生きております。

 さらに、神の愛を宣べ伝えないといけないはずのキリスト教団体までもが、決まっているもの以上に取り立て、人をおどかしたり、だまし取ったりしているという現実があります。

 私を含め、キリスト教の教職者たちの木の根もとに、すでに斧が置かれています。

 神が人々にもたらした教えは、教義さえ暗記すれば、儀式さえ行えば、何の苦しみもない異世界に転生して無双できるなどというファンタジックなものではありません。

 ただただ日々の現実の中で、神と息を合わせ、人々の鼓動が連動し、神と人々のリズムが重なる時に、この世界を造られた神さまの働きが現れ、現実を変えるのです。

 私たちは、何をすれば良いでしょう。互いに与え合い、支え合って生きていきたいと思います。