旧約聖書は、古代イスラエル人によって、おもにヘブライ語で書かれました。ヘブライ語の単語も、周辺の多神教文化の影響を受けていたようです。
ヘブライ語での「太陽」「月」、ギリシア語での「ハデス(冥界)」、日本語の「黄泉」のように、多神教文化と強い繋がりのある言葉はたくさんあります。
聖書というと「全知全能の神を崇拝する一神教の聖典」というイメージが先行しがちですが、多神教文化の中で形成されたことに留意しつつ読んでいくと、新しい発見があるはずです。
一言に古代といっても、西暦1世紀頃には、ギリシア哲学を使って哲学的に聖書を解釈する試みが流行っており、西暦5世紀頃には、現代のキリスト教神学の土台が出来上がっています。時代・地域ごとに、聖書の捉え方は大きく異なるようです。
古代中近東は多神教文化で、神々が人間臭い存在として描かれます。この文化の中で旧約聖書が書かれたので、当然旧約聖書に出て来る神も人間臭い存在として描かれます。
その一方で、現代人は「一神教の神は全知全能であり、全知全能ということは、その行動も合理的に説明できるものでなければならない」というイメージを持っています。なので、人間臭い記述を目の当たりにしたとき、そのギャップに驚くことになります。中には「一神教の神は自己中心的な暴君だから信用ならない」と感じる人もいるでしょう。逆に、「神なので、人を殺戮しようが殺戮を命じようが、全て正しいのだ」と正当化する人もいます。
でも、現代日本人が古事記を読んだ時、大抵は「神道の神々は何て暴力的で残酷なんだ」とはなりません。
日本人は聖書を読む時と古事記を読む時で、頭を切り替えているのかもしれません。
無宗教の人でも、仏像は丁重に扱われるべきだという感覚を持っている人は多いと思います。同じようなテンションで1人1人の人間を大切にする社会になれば、どんなに素敵でしょう。
キリスト教徒たちの今までの悪行のせいもあって、「一神教は人間を大切にしない」というイメージが一般的は強いと思います。しかし、旧約聖書は周辺民族の神話よりも人間の地位を高く描いているようです。
いつの時代も国際情勢は大国の都合によって左右され、小国は大国に翻弄されます。
古代イスラエルの人々は、軍事大国に国を滅ぼされ、他国の支配下に置かれていました。そんな時代に旧約聖書は編纂され始めました。
聖書の中では「軍事大国」「経済的に繁栄している都市」「社会的強者」は悪役として描かれがちです。まるで世間のヒエラルキーをひっくり返すかのようです。
聖書の物語は、「弱者の声」なのかもしれません。
古代のキリスト教徒は「人は神に向かって育つ性質を持つ」と考え、大乗仏教の仏性では「衆生は仏になる性質(素質)を持つ」と考えていたようです。なんか似ていますね。
古代のキリスト教徒には、「神は無限なので、人間も無限に育ち続ける」と考えていた人もいました。現代のキリスト教には「人間は原罪を持って生まれたので、腐敗しきった存在であり、神から救いに選ばれた人だけが天国に行ける」と主張する教派もあります。同じキリスト教でも時代・教派によって人間観や世界観が大きく異なります。
「フロア」と「フロウ」(u-o)
「聞いてっか!?」と「トベるんか!?」(ka)
「上げてけ」と「届け」(ke)
「地上のバイブス」と「至高のライム」(i-o-o-a-i-u)
で韻を踏んでいます。
水上佐紀 バリバリ 神の像 (a-i で韻)
ボロボロくそ雑魚 勝てそう 余裕でしょう (oで韻)
「神の像」「俺のこと」(o-oで韻)
「ちゃうんけ」「disるんけ」「安寧」「泰平」 (eで韻)
※大和弁(奈良弁)では重母音「エイ」が「エー」と発音される傾向があるので、「e」として扱っています。
「disり合い」「分かち合いたい」「寄り添い合い」「天下は泰平」(a-iで韻)