大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

『古代オタクが聖書に挑むお話』8

 今回は、エデンの園の物語で、なぜ神は、人間が食べてはいけない知識の木の実を柵などで囲わず、無防備な状態にしておいたのか」という話です。

 聖書に記されている神の行動は、合理性を重視する現代人からは、奇妙に映る点が多いですね。なので、聖書を読むこと自体が1つの異文化コミュニケーションになりますね。

 宗教関係者は、「神に従うのが善、神に逆らうのは悪」という2択で聖書を解釈しがちです。しかし、旧約聖書は本来、古代イスラエルの人々が自分達のアイデンティティを下の世代に継承していくために編纂したものなので、宗教の教義に沿って単純化し過ぎるのは、ちょっともったいないかもしれません。

 シュメール神話の『エンキとニンフルサグ』ですが、このお話で登場する「エンキ」という神は、人間の言葉を混乱させる物語や、神々が大洪水を起こす物語にも登場するそうです。言葉の混乱、神による大洪水……聖書の物語に慣れ親しんだ人なら、ピンと来ると思います。

 シュメール神話は非常に古く、粘土板に刻まれた文書から解読されました。旧約聖書よりも成立が古いとされているので、「旧約聖書はシュメール神話のパクり」と言われることもあります。しかし、直接の借用関係について考察しようとすると非常にややこしいので、ここでは旧約聖書メソポタミア地域の神話には、何か共通の文化的な土台があったはずだ」という推測にとどめておくことにします。

 聖書を読むとき、宗教団体によっては、「聖書は神が書いたものなので、文字通り信じれば良いのだ」と教えることもありますが、ここではその立場は取らず、「古代中近東の文化の中で紡がれた、古代イスラエル民族の伝承」として考察していきます。

 古代イスラエル人が他民族の帝国に支配されていた時に、旧約聖書が編纂されました。多くの民族の神話では、権力者が神の子孫であったりします(大和王権の神話でも、天皇家天照大神の子孫とされていますし、エジプトでもファラオが神の代理人として統治します)。しかし、古代イスラエル人は、「人類そのものが、神の代理人として地上を統治する存在として、神に創造された」と主張しました。

 古代イスラエルを支配した諸帝国の神話に対する反論という側面があったかもしれません。それにしても、「古代イスラエル民族だけが神の像として造られたのだ」ではなく、「神の像として造られた人間から諸民族が生まれ、その中のイスラエル民族が神の民として選ばれた」という世界観は興味深いです。

 現代に生きる我々は、「旧約聖書一神教聖典」という図式が頭に入っているので、既存の一神教に対するイメージから聖書を解釈しがちです。しかし逆に、旧約聖書を書いた古代イスラエル民族は多神教文化を前提とする時代に、古代中近東の多神教文化を土台として旧約聖書を編纂しました。

 キリスト教会の教義や「一神教」へのイメージを脇に置いて聖書を読むと、新しい発見があるかもしれません。

 エデンの園で人間が知識の木の実を食べた事件、テキストに注目して読んでいくと、「子どものつまみ食いというより、管理職による横領」となるかもしれません。古代中近東の人々は、「王の側近によるクーデター」みたいなイメージでこの物語を書いたのかもしれませんね。

 旧約聖書では人間は「地上を治めるために神の像として造られ、園を守るためにエデンの園に配置された」という前提で、エデンの園の物語を読むと、物語の印象ががらっと変わってきます。

 古代イスラエル人は、「神が人類全体が神の代理人として生きることを期待している」と考えていたのかもしれません。そうすると、人間には結構な裁量と責任が与えられているということになりますね。

 次回は、知識の木の実って何やねんというお話です。