※この記事は、ツイキャスで配信した内容のテキスト版です。
どうも、ねだおれと申します。
今回はツイキャスにて、聖書講釈などと称して、聖書の解説を始めて行こうと思とります。
それでは、しばしの間お時間いただきとうございます。
皆さま、聖書てどんなもんやと思たはるでしょうか?
「聖書? なんか、キリスト教徒にとっては有難い書物なんか知らんけど、どうせ進化論は嘘やとか、酒飲んだらあかんとか、なんか胡散臭い教え押し付けてきよんねんやろ? ※おっとろしいてかなんわ」
(※おとろしい:「面倒だ」の意。 かなん:「困る」「嫌だ」みたいな感じ)
「聖書言うたら、あれやろ? もうすぐ終末が来て異教徒は地獄落ちるよって、せいぜい信心しなはれやとか、屋敷も田んぼも売り払て教会にお布施しなはれやとか、恐怖で脅して人々を洗脳しとんのやろ?」
そねんイメージもあるかもしれません。
現代人にどんな関係あんねんやとか、聖書の内容なんぞ信用できるわけないやろがとか、疑問や疑念持ったはる方が多いと思うんです。
私も元々、聖書やキリスト教について、あんまり良い印象は持っとりませんでした。
私は奈良で生まれ育ったさかい、神社仏閣に囲まれて生活しとりました。仏教、神道、天理教……子どもの頃から、いろんな宗教に触れて生活しておったわけです。
そんな私もいつの間にか高校生になり、世界史を学びます。すると、世界史に出てくるヨーロッパのキリスト教の、なんちゅうえげつないことでしょう。十字軍、異端審問、魔女狩り……神の名の下に働かれる悪事の何と多いこと。
高校生の時分、私は「キリスト教って、悪の組織やないけ。ひどいことばっかりしよるがな。日本がキリスト教の国やのうてホンマ良かったわ」そねん風に思とりました。
そうこうしとるうちに、大学に進学しました。行った先はなぜか、キリスト教系の大学。
「キリスト教は俺ら日本人の敵やからな。敵の宗教勉強すんのも、まあ大事やろ」
入学式もキリスト教式、さらに私が所属する学部では、その大学の歴史・理念についての科目、またはキリスト教についての科目が、必修となっておりました。
「これは、敵の宗教しっかり勉強するまたとない機会やでぇ」
私は片っ端から受講しました。そして見事に、洗脳されました。
どねんして私がキリスト教に心惹かれるようになったかは、また別のお話。
ともあれ、私はキリスト教徒になったのでした。
私がキリスト教徒になったということは、少なくとも私個人にとっては、聖書はそれなりに信用できる書物やさかい、聖書もキリスト教も私に関係がある、そねん結論に達した。そういうことでありました。
「こいつ、現代人のくせに、あんな迷信だらけの書物、なんで信じとんねん!?」って思われる方もいたはるかもしれません。それにしても、そもそも聖書って何なんでしょうか。
そもそも聖書って何やねん言う話なんですが、キリスト教の聖書っちゅうのは、キリスト教の正典でございます。
せやけど、始めから1冊の書物やったわけやありません。
1000年以上かけて、いろんな時代のいろんな言い伝えを、いろんな時代のいろんな人々が、いろんな書物に書き記した。そうやってできた沢山の書物をくっつけていったのです。
キリスト教の聖書は大きく分けて、旧約聖書と呼ばれる部分と、新約聖書と呼ばれる部分から構成されとります。旧約聖書は、ユダヤ教の聖典と大体同じです。収録されたある書物の順番などは少し違いますが、大体一緒です。旧約聖書を書いたのは古代イスラエル人。エジプトやメソポタミアの御近所、中近東と言われる地域に位置していた。 西洋か東洋かで言うたら、実は東洋なんでございます。
彼らは、神が、全ての人間を「神の像」、つまり神に似た存在として造ったと信じていた。これは、人間は神の奴隷であり、一部の権力者だけが「神の像」であるとする、近辺の民族の価値観とは異なります。古代イスラエル人は、全ての人間は「神の像」として造られたけれども、欲に目がくらんで悪さをするようになった。そえで、世界は壊れてしもたけど、神は人間と一緒に世界を立て直そうとしている。旧約聖書によるとこうして選ばれたのが、イスラエル人。現代のユダヤ人の先祖でございます。しかし、神の理想通りにはいきません。イスラエル人は何度も神を裏切ってしまう。そして最後には、イスラエル人の王国は、異民族によって、滅ぼされてしまった。それでもイスラエル人は希望を失わない。いつか、神から遣わされた救世主が、イスラエル民族を救い、世界を平和にしてくれると信じたのです。
次に書かれた新約聖書は、キリスト教徒らが書いた書物を後に、「これも聖書や」言うて正典にした部分です。
キリスト教が生まれたのは、紀元1世紀、ローマ帝国属州のユダヤでありました。 ここで登場するのは、かの有名なイエス。カリスマ的な宗教家でした。イエスは神の愛と赦しを説き、社会から疎外された人々に救いの手を差し伸べ、弱者を苦しめる特権階級に嚙みつきます。しかし、これが権力者の怒りを買ってしまった。イエスはユダヤの権力者の手によって、ローマ帝国に、反逆者として突き出されました。その結果、イエスは十字刑で処刑される。しかし、イエスの弟子たちの間で、イエスが復活したとの噂が聞かれるようになる。そうしてイエスが神の子であり救世主や言う信仰が生まれ、キリスト教が成立したのでございます。その後書かれた書物が、新約聖書として収録されました。こうしてできたのが、キリスト教の聖書で御座います。
激しい迫害を受けるも、紀元4世紀にはなんと、ローマ帝国の国教となってしまいます。
宗教が、政治権力とくっついてしまった。愛と赦しを説いたキリスト教が、その手を血に染めるようになり始める転機でありました。
権力と一体化したキリスト教は、国家の力で教えを強制するようになっていきます。
皇帝の名によって開催される会議で正統な教えが決定され、その他は異端として排除される。
正統なキリスト教以外の信仰は禁じられる。
十字架の上で、人間の暴力性を一身に受け止めたキリスト。そのキリストの教えを信ずると称する者達が、暴力で人々を支配する。そんな時代へと移り変わっていくのでございます。
こうしてキリスト教はヨーロッパ世界の覇権を握ります。
やがて古代から中世へ。
権力者からキリスト教を強要された民衆には、教会の教えを疑う余地はありません。 彼らがキリスト教しか知らんかったさかいに。教会は、権力者は勢いづき、十字軍、異端審問……様々な蛮行が繰り返されます。しかし、1つの教会による支配も、永くは続かんかった。
教会に疑問を持った宗教家によって、反攻の狼煙が上げられます。16世紀の宗教改革時代、プロテスタントの登場です。
しかし、更なる暴力の連鎖が生まれる。カトリックとプロテスタントの殺し合い。 そしてプロテスタント同時の殺し合い。プロテスタント同士の論争で負けると、異端と見做され火あぶりにされてしまう。さらには魔女狩り。いくつもの教会が生まれる。それでも、まだ聖書を疑う者はいなかった。民衆はキリスト教しか知らんかったさかいに。
しかし、科学技術の発展と共に、人間の理性への信頼が高まり始めます。
啓蒙主義の時代がやってきました。そうして科学技術は益々発展。やがて、人々は疑問を抱くようになります。
「聖書に書いたることって、ホンマに信用できんのか?」
理性の時代のヨーロッパ。聖書がこの時代にも信用できると言えなければならない。 やがて、人間の理性と矛盾しない信仰の在り方が模索されるようになりました。そこで登場するのが、自由主義神学と呼ばれる思想で御座います。
「確かに、聖書の中には、今で言う嘘とか迷信もようけ書いたるかもしれへん。せやけど、聖書の物語がわてらの心を動かすよって、聖書はわてらを導いてくれる。せやさかい、聖書には意味があんねんや」
聖書にはフィクションもようけ含まれたるかも知れんけど、聖書は人々の心を動かし、道徳的に教化するよって意味がある。そねん風に主張する人々が、これを機に登場することになります。権力で信仰を強制した中世とは大違いです。
一方、19世紀のアメリカには、異なる動きもあった。
「もうすぐ終末が来るはずや。天国行きたかったら、うちの教会で信心しなはれや!」
聖書をそのまま事実やと信じる信仰も発展していく。さらには、もうすぐ終末が来るはずやと信じる信仰もあった。その流れの中で、『エホバの証人』などの団体も生まれます。
ともあれ、欧米は科学技術を益々発展させ、人間の理性と知性への信頼は最高潮へと向かう。
人間の理性と知性を活用することで、人間の生活は、人間の社会は、益々豊かになっていく。誰もがそういう風に信じていた。
しかし、歴史の歯車は狂うもので御座いました。
時は西暦1914年6月28日、1人の学生の銃弾が、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻を襲った。
時は帝国主義の時代。強い国が自分より弱い国を支配する世界。
支配された者の怒りの銃弾をきっかけに、国々が2つの勢力に分かれて戦った。
第1次世界大戦の始まりです。
塹壕から兵士が飛び出す 決死の突撃も虚しく、機関銃にダダダダーッとなぎ倒されていく。
塹壕を蹂躙する戦車の轟き。飛行機からは爆弾。そして散布される毒ガス。
人間の生活を豊かにするはずやった科学技術が、大量殺戮のために使われた。
人類の災厄は、まだまだ続きます。
第二次世界大戦が始まる。ナチスのホロコースト、アメリカによる2発の原爆。
人間の知性と理性が、人間の生活を、人間の社会を豊かにするはずでした。誰もが、自分達の行動の合理性と正しさを信じていた。しかし、そこにあったのは暴力の連鎖。 人間の知性と理性への信頼は、脆くも崩れ去りました。しかし、時代の歩みは待ってはくれません。
技術の進歩、社会の変革と共に、人間の価値観もまた変化していく。
すると、これまでの「正しい価値観」というものが揺らぎ始める。その一方で、人間の知性や理性に対する不信感もある。何が正しいか分からん。ほんだら人々は、信ずる物を欲するようになる。単純明快な答えが欲しくなるのです。
聖書の内容が全て客観的事実であるとする信仰が、大いに盛り上がる。
多くのアメリカ人が、牧師の口から発せられる単純明快な教えに、熱狂した。これは、啓蒙主義から発した自由主義神学に対する、1つの揺り戻しでもあったかもしれん。
せやけど、そこにも落とし穴があったので御座います。
キリスト教徒の中で自分達が一番正しいと、他を見下す者も現れた。子どもを鞭で叩けと教える牧師も現れた。男が一番偉いよって、女を支配するんが正しいんやと考える者も現れた。同性愛は罪やと教え、性的少数者を施設に監禁し虐待する者も現れた。
ローマ帝国に国教化されてから中世までは、権力者が民衆に信仰を強制した時代。 宗教改革時代は異端と見做されると殺される時代。それらの時代に形作られた暴力性の残滓、残りかすもまた、聖書の解釈の仕方に絡みついていたのかもしれません。
古代人が書いた聖書と言う書物。この聖書がキリスト教の聖典なわけですが、ほな、この書物は信用できるんかできひんのか。これは誠に難しい問いで御座います。聖書をどのように信じるのか、今回お話ししましたように、キリスト教徒によって千差万別。 1つは、文字通り信じるべきやと考えるやり方。その反対には、これは比喩なんや、物語を通して何らかの知恵を与えてくれるんやと考えるやり方。教会は政治権力を失い、科学技術も進歩した現代。信心の在り方も様々に分かれるもの。聖書はどねんして信用できるんやと言いましても、どねん前提に立つかで、信用できるとする基準もがらっと変わるもんで御座います。
ほんだら、聖書ってどねんして解釈したら良えんでしょうか? 結局、聖書は文字通り事実なんか、それとも、聖書は比喩、つまりたとえ話なのか。そえで、どねんして現代人に関係するんか。いろいろ気になる所ですが、ここでお時間で御座います。