ある日、ねだおれがいた。
ねだおれは思った。
「いやー、奈良で牧師目指すなら、やっぱり県内の宗教事情はよく理解しとかなアカンよね。せや、今って桜の時期やし、吉野よさげやな。鮎の塩焼きとか食べたいし。吉野行こ!」
ねだおれは、4月1日に吉野に行くことにした。
この時、鮎の塩焼きで頭がいっぱいになっていたのであった。
吉野――豊臣秀吉がデカい花見を催したと言われる程の、桜の名所だ。
近鉄線を利用し、そんな吉野へ鮎の塩焼きを食べに行くこととした。
橿原神宮前駅にて吉野線に乗り換えるが、待ち時間中に青くてゴージャスな電車が現れた。
「青の交響曲<シンフォニー>や!」
そのゴージャスさにテンションが上がり、とりあえず写真を撮る。
もちろん自分が乗るわけではない。ねだおれにそんな金はない。
青の交響曲でテンションを上げ、自分は吉野行きの普通電車に乗り込む。
電車に揺られながら、キリスト教関係のテキストを読んだり、窓の外を眺めたりしながら、鮎の塩焼きへの期待に胸を膨らませていた。
普通電車に揺られること1時間弱、吉野についた。
「うお、吉野や!屋台もある!」
唐揚げやたこ焼きの屋台が食欲をそそる。
しかし、目当ての鮎の塩焼きを求め、ロープウェイに乗り込むこととした。
既に、ねだおれは当初の目的を見失っていた。
ロープウェイでは、添乗員さんから、山頂の方はまだ桜は咲いていないけれど、桜の咲いている部分もあるので、そこを見てくださいという感じのアナウンスがあった。
この時期、気候の違いから、ロープウェイが通る所は、あまり桜が咲いていなかったのである。
桜の開花状況をろくに調べもせず、思い付きで吉野に来てしまったねだおれはこう思った。
「おお、ワイヤーみたいなやつ、めっちゃ動いてる!ワイヤーを支えてる鉄塔っぽいやつについてる車輪みたいなやつ、めっちゃ回ってる!なんかよくわからんけどすごい!」
ねだおれは、鉄塔っぽいやつについている車輪みたいなやつがくるくる回るのを夢中で眺めていた。
ねだおれの精神年齢は5歳であった。(生活年齢約30歳)
ロープウェイで山に登り、鮎の塩焼きを購入、休憩所で食べた。
「うわ、うま!鮎の塩焼きうま!吉野来てよかった!」
ねだおれは満足した。
~終わり~
満足したねだおれは、当初の目的をやっと思い出した。
「せや、いろいろ見て回るんやった!」
ねだおれは食事処で昼食を取り(食欲が尽きることはない)、金峯山寺へ向かって歩き始めた。
すると、何やら木でできた黒い門があらわれた。
「うわー、テンション上がってきたなー」
ウキウキしながら門をくぐり、立ち並ぶ店を眺めながら進んでいく。
すると、赤いのぼりが目に飛び込んだ。
歯の健康にご利益のあるお地蔵さんだそうだ。
「歯の健康を守ってくれるんや……便利やな」
寺の方を向くと、観音様が立っていた。
足元に札が立てられており、読んでみると、名前は「八起観音菩薩」というらしい。 真言は「オン アロリ キヤ ソワカ」というらしい。
真言についてはよく分からないので、また後で調べることにした。
寺を後にして、また1本道を進み始める。
「特定のニーズに答えるタイプの仏さんもいたはるねんなあ……確かに、人々のニーズに答えることは大切やもんな……現実の世界で生きてる人々の思いに丁寧に向き合ったはるねんな……」的なことをしみじみと考えながら、デカい金属製の鳥居に出くわした。
金峯山寺の鳥居らしい。
鳥居の近くでは、子どもたちが遊んでいた。
まるで、はしゃぎ回る子どもたちを、鳥居が温かく見守っているかのようであった。
子ども達が、何の憂いもなくはしゃぎ回れる、そんな空間はこの世のお浄土を体現しているのかもしれないな……みたいなことを考えつつ、ねだおれは進んでいった。
再び、道の左右にいろんな店が展開されている。
歩きながら店を眺めていると、衝撃的なモノが現れた。
「キ、キリスト看板や!」
そこにあるのはキリスト看板、いやキリストシールだろうか。
店のパイプに貼られていた。
「LINEのQRコードもついてる!」
キリスト看板も時代によって進化していくらしい。
「やっぱり情報化社会やもんな……そら布教にLINEも使うわな……でも”神が人類をさばく日は近い”は怖いな」
ちょっと怖かった。
なんやかんやで、蔵王堂にたどり着いた。
人が集まり、受付には列ができていた。
「コロナ禍のこともあるし、密集してたらちょっと怖いな……ん?」
特別拝観 大人一人1600円 (※通常の時期は、大人一人800円だそうです)
「高ッ!今月出費かさんだからキツいなあ……」
拝観は断念し、外から様子を伺うこととした。
外からとはいえ、とても荘厳な雰囲気があり、どちらにしろ異教徒が見学気分で入っていい場所でもない気がした。
お堂に入っていく人々。
日本人は無宗教なんて嘘だ。これは巡礼だ。日本人は信心深いッ……!!
なんやかんやで日本人めっちゃ信心深いやんと思いながら辺りを見回すと、看板があった。
脳天大神
蔵王権現様の化身、首から上の守り神
「おお、今度は首から上か!またピンポイントなご加護やな!面白そうやし行ってみよ!」
かなり軽い気持ちで450段の階段に挑戦することにした。
脳天大神に向かう途中、トイレで用を足す。すると……。
「すごい……トイレの空間にも信心が表れてる……」
関心しながら、脳天大神へとさらに向かった。
進んでいくと、デカい像が見えてきた。
「デ、デカい……!これは役行者さんか?両隣にいるのは生駒山で捕獲したとかいう前鬼と後鬼?」
像のデカさと迫力に興奮しつつ、さらに進んだ。
進んでいくと、分かれ道があった。
「なんかこっちが脇道っぽいな。逸れたろ!」
ねだおれは迷わず、違うっぽい方の道を選んだ。何か面白い発見があるかもしれないと思ったのである。
そこにあったのは、2体のお地蔵さんであった。
1体には、「水子供養」と刻まれている。死産や流産で亡くなった赤ちゃんを供養するお地蔵さんだ。
もう1体には、「無縁地蔵 萬霊供養」と刻まれていた。無縁地蔵ということは、供養されることのなかった人々を供養するということらしい。萬霊供養ということは、分け隔てなく、あらゆる命を供養するということだろうか。
「そうか……命に寄り添ってるねんな……」
キリスト教では、亡くなった人は皆神の元に帰ったと信じている(と、ねだおれは認識している)ので、供養をするという感覚は希薄であるように思われる。
それどころか、キリスト教は中世以降、命を粗末にしてきた宗教だ。
有史以来から累計すれば、おそらく人を殺戮した宗教第1位となるであろう。
おそろしいのは、それだけではない。
キリスト教を信仰することなく亡くなった人を、「地獄に堕ちた」と考えるキリスト教徒も少なくないのである。
ねだおれには信じられない話だが、あるキリスト教徒のご家族が亡くなられた時、他のキリスト教徒が「救われなくて残念だったねー」と声をかけたという胸糞エピソードもある。(一部のキリスト教では、信仰を持つことを「救われる」と表現する)
あらゆる命のために祈る宗教者と、他者の命を粗末に扱ったり、死んだ異教徒は地獄で罰を受けると考え見下したりする宗教者、どちらが宗教者として成熟しているか、火を見るより明らかである。
命に寄り添える宗教家になりたい、と決意を新たにするのであった。
人々に寄り添う宗教とは何か、思案しながら階段を下っていくのであった。
(後半に続く)