大和寝倒れ随想録

勉強したこと、体験したこと、思ったことなど、気ままに書き綴ります

ブログ開設しました

どうも、牧師を目指して勉強中の奈良県民、ねだおれです。

ブログを開設します。

このブログでは、キリスト教の勉強から発見したこと、日々の生活で思ったことなど、思いつくままに書き綴っていこうと思っています。

 

「ねだおれ」というハンドルネームですが、これは知る人ぞ知るフレーズ、「京都の着倒れ、大阪の食い倒れ、奈良の寝倒れ」から来ています。

「奈良の寝倒れ」の由来については、主に2つの説があるようです。

1つは、奈良県民の気質に対するイメージから来ているという説。

つまり、奈良県民はおっとりして寝てばかりで、身上を潰してしまうというイメージ。

のんびりしていてよろしいと取るか、何やそれは失礼やなと取るか、人によって感想が分かれてきそうなところです。

もう1つは、鹿の遺体処理にまつわる言葉だという説。

昔、鹿の遺体処理は、発見者が処理費用を負担しないといけなかったようです。

それで、自分の家の近くで鹿が死んでいると困るわけです。

早起きの人は、近所の人が起きる前に、鹿の遺体を近所の家の前に移動させておくことで、出費を近所の人に押し付けたという言い伝えがあります。(真偽の程は不明)

そうしたわけで、遅くまで寝ている人は、家の前に鹿の遺体を置かれまくり、出費がかさんでしまう状態を「寝倒れ」と呼んだとも言われています。

 

どの説が正しいかは分からないし、「奈良の寝倒れ」というフレーズがいつどこから発生したのかは分からないけど、なんか素敵やなあと思いました。

現代の世の中では、何やら効率最優先で、より達成した者がエラい、より多くを持ってる者がエラい、人を追い越せ出し抜けみたいな風潮も一部にはあるわけで、なんだかギスギス感があります。

例えば、就職活動では労働者としての市場価値を問われます。

数ある応募者の中から、自分こそが最も相応しいとアピールしなければなりません。

自分の長所、学生時代のエピソードや、今までの職歴、あらゆる要素を、競争相手に勝つための手札とすることを求められます。

会社から見て、労働者としてどれだけの「市場価値」があるか、品定めされるわけです。

さらには、人と人が愛し合うことで成り立つはずの恋愛や結婚の世界にも、市場原理が持ち込まれることとなりました。

私自身は、婚活をした経験はないのですが、収入や容姿、どれほど気遣いができるかなどの「スペック」によって、相手を品定めする風潮が強まっていると聞きます。

でも、そういう世界って、かなりしんどいのではないでしょうか。

 

組織から、そして目の前の人からも、「どれだけの市場価値があるか」「どれだけ役に立つか」で品定めされ、価値が低いと見なされれば「用無し」と切り捨てられる世界。

本来人って、生きてて食って寝て、それで適当に働いてたら何とかなる、そういう世界を前提として造られた生き物なんではないかと思うんです。

しかし、技術の発展がそうさせたのか、際限なく膨らむ市場経済がそうさせたのか、常に尻を引っぱたかれているような世の中になりました。

YouTubeを観ても、ネット記事を見ても、あるいはテレビを観ていても、もっとお金を稼げる自分にパワーアップしなければならないかのような、あるいはもっと容姿に気を使ってエレガントな自分に変身しないといけないかのような、はたまたあるいは、ハンコの角度やらメールの細かい言葉選びに細心の注意を払えるマナー完璧な社会人にならなければならないかのような、なんというか、常にもっと「上」の自分にならなければならないかのように追い立てられている気がいたします。

 

でも、そういうのはしんどいと思います。

ホンマにかなんなぁと思うわけです。

おとろしい(めんどくさい)です。

 

そんな私には、「寝倒れ」という言葉が、何やら不思議なパワーを持った言葉かのように映りました。(どんだけ疲れとんねん。)

「寝倒れ……なんかよさげやん」

それで、ハンドルネームを「ねだおれ」としました。

 

キリスト教の目指すところも、神と人の間に愛が溢れる平安な世界。

であれば、皆が安心して「寝倒れることができる」世の中を目指すのも、悪くはないのでは?

というわけで、大和寝倒れ随想録を始めます。

 

これからは、牧師を目指すキリスト教徒として学んだこと、一人の奈良県民として日々の生活の思ったことなどを、だらだらと書き綴っていくつもりです。